広島で生まれ育ったわたし、1989年以降は東京である。
2022年11月の土日にかけて、広島の風光明媚な山あいの町で暮らすおばさんの家に3泊した。おばさんの娘であるMちゃんとも合流し、ワイワイワイかしましく過ごしたのだった。
それにしても、11月6日、日曜日の広島駅ビルの熱気には驚かされた。夕方17時過ぎには、あなごめし、しゃもじかきめし等々、駅弁は全種類完売であった。
駅弁どころか、お土産人気ナンバーワンのもみじ饅頭、なかでも近年、徐々にその存在が全国区になっている、にしき堂の「生もみじ」の人気は凄まじかった。
もみじ饅頭は、元祖である高津堂、にしき堂、やまだ屋、藤い屋、など、いくつものメーカーがあるが「生もみじ」は、にしき堂でしか買えない。
でも、生もみじの前に、1906年(明治39年)誕生、元祖「もみじ饅頭」こと「紅葉形焼饅頭」のことに触れなければならない。
もみじ饅頭を発案した人物は明治後期の厳島(宮島)の和菓子職人、高津常助とされている[9]。島内の名所・紅葉谷の旅館「岩惣」にはその頃、皇太子である嘉仁親王(後の大正天皇)や大韓帝国皇太子(のちの純宗)・伊藤博文・夏目漱石ら要人が多く投宿していたが[10]、この岩惣に和菓子を納入していた高津は、宿の女将・栄子から「大切なお客様への手土産に、紅葉谷の名にふさわしい菓子が作れないか」と依頼され、試行錯誤の結果1906年(明治39年)に「紅葉形焼饅頭」を完成させた。
とある。つまり、元祖高津堂の和菓子職人である高津常助が、宮島の老舗旅館岩惣の女将から、後の大正天皇や伊藤博文、夏目漱石など、要人宿泊の際の、宮島の紅葉谷を象徴する手土産作りを依頼され「紅葉形焼饅頭」、後のもみじ饅頭の原型を考案したのが最初だ。
面白いのは、元祖である高津堂の二代目の高津昇が、父と同じ味を作れないのを理由に、いったんもみじ饅頭作りをやめてしまったことだ。
しかし、1925年(大正14)から、藤い屋、やまだ屋などが、宮島の島内で、店先でもみじ饅頭の手焼きをはじめる。
戦後、宮島の観光客の増加とともに、広島駅の北口に本社を構えるにしき堂が、広島市内の業者が開発した大型焼成機によって工場生産体制が整ったことにより、もみじ饅頭の大量生産をはじめ、「にしき堂のもみじ饅頭」は、看板商品となった。以来、いくつものメーカーがもみじ饅頭を作るようになった。
2009年には、元祖高津堂三代目の加藤宏明、もみじ饅頭の発案者、高津常助の孫が、もみじ饅頭を復活させる。やはり、大きな転機となったのは、
1980年代の漫才ブームの中、1980年10月頃からお笑いコンビ「B&B」のネタとして、島田洋七が「モミジマンジュウ!」と言うと相方の島田洋八が「きびだんご!」と返して互いに譲らないというギャグが流行すると、もみじ饅頭の知名度は爆発的に上がり「もみじ饅頭ブーム」が訪れた[14]。
という事実がある。
ワタシも当時は広島にいた。テレビの漫才番組で、洋七が、も、み、じ、まん、じゅう~~~~!!と大きく両腕を広げ、もみじ饅頭を、かたどりながら連呼するギャグをよく覚えている。
ブームに乗って売り上げは爆発的に伸び、1951年発売のにしき堂のもみじ饅頭は、長らくあんこ一択だったけれど、
1984年にチーズもみじが発売されたときは、それまで和菓子に全く興味のなかったわたしも、すごく美味しいと思った。
板状の厚切りチーズが入っていて、外側のカステラ状の生地と相性抜群だった。
現在、にしき堂のもみじ饅頭は、カステラ状の生地とあんのオーソドックスなタイプが、こしあん、粒あん、チーズクリーム、チョコレート、お餅、お芋、と6種類、
コラボ商品、季節限定などいれると相当数あり、バラ売りをひとつひとつカゴにいれて買えるのだ。
参考:にしき堂
次の転機が、いよいよ平成21(2009)年発売の生もみじだ。
長崎屋 モチモチ食感が絶品!にしき堂の「生もみじ」は広島の新名物!
生もみじというのは、餡を包んでるカステラ状の生地が、モチッとした弾力ある生地に代わった饅頭のことだ。
いちばんの特徴は、小麦粉を一切使わず、米粉がベースなこと。一見すると、普通のもみじ饅頭に見えるけれど、ひと口かじると軽い驚きがある。米粉ともち粉、卵液などを独自の配合で混ぜ合わせている生地なのだ。
ゼリーと餅の中間のような独特の食感の皮と餡子が、口に広がる瞬間が楽しく、餡子と皮が一体化し、饅頭として完成度も高い。
なんでも、従姉妹のMちゃんが言うには、2009年発売当初「生もみじ知っとる?」と、会話の糸口に使われるほど話題になったそうなのだ、と書いてる端から食べたくなったわ。
*「さんたつ by 散歩の達人」で、同じテーマで投稿、東京のアンテナショップで手に入る、にしき堂、やまだ屋、藤い屋、について語っております。