月曜にちょっと早い忘年会をした。
60代のわたし、50代のオンナ2人だ。東京都郊外、田園都市線沿い駅前のイタリアンである。
ワールドカップ、サッカー、日本対クロアチア戦が控えてる夜、わたしたち以外に老夫婦がおり、18時過ぎから21時半のあいだ、広い店内、見渡す限り、客はこの2組だけだった。
平日限定のメニュー、前菜の盛り合わせと魚介類にしよう……、ひそやかな声で話しあっていた老夫婦はいつのまにかいなくなった。
これが前菜の盛り合わせ、味良し、ボリュームたっぷり、文句のつけようのない前菜だった。
オンナ3人、口を揃えて安い!例えば、二子玉川、自由が丘のイタリアンに比べても、出てくる料理がことごとく、質、量共に満足の行くものだった。テナント代は馬鹿にならない、飲食店は大変だ、と3人とも妙に納得する。
生まれも育ちも東京下町の50歳の女友達が、会話の主導権を握った。自由自在に喋り倒す。子供の進学問題、夫のこと、ママ友の付き合い、仕事、日々の食事などなど。
マシンガントーク。
頭に浮かんだことをほぼそのまま言葉にする。オトナだから、もちろん言ってはいけないことは言わないし、その場に心地よい話題を、ほとんど本能で口にする。
ズバズバ本音を言うからスカッとするし、わたしともう一人の女友達は、ニコニコしながら、時々、質問しながら聞き役になった。まるでBGMのように喋るもんだから、聞いてても疲れない。
そういえば、昔、非常によく喋る2人の同級生の女の子がいた。男の同級生が、2人の違いを明確に説明したことがあった。
つまり、同じように喋るのに、聞き役として、1人は非常に疲れ、片方は全く疲れない。
1人は、話さなくちゃいけない、と思って喋り、片方は本能で喋ってる、と言うのだ。当然、本能で喋ってる女の子は相手を疲れさせず、モテた。世の中とっても不公平だ。
いつしか話題は、3人の味覚の違いに移った。聞き役の友達が、思い出したように、わたしの話をした。
わたしと義理の母2人だけのある夜、義母が今夜の夕食は、2人だからおいしいもの食べようね、と言った。
何が出てくるんだろうと、大食いで食いしん坊のわたし、台所で、義母の料理を見守っていたら、炊飯器の突き立ての餅、きな粉、砂糖、がテーブルに並び、
次の瞬間、餅を丸めて、きな粉と砂糖の入った皿にどんどん載せていく。突っ立ったまま呆気に取られているわたしに、さっさとテーブルについて食べるようにと促した。
昔はきな粉が苦手だったわたし、砂糖醤油にしようとしたけれど、まずは、きな粉を食べよう、その後、砂糖醤油行こう、と言われたとき、
とっときのおいしいものとは、餅のことだ、と気がついた。故郷の広島と群馬の食の違いを、まざまざと見せつけられた思いだったのだ。
その話を、聞き役側の友達は、懐かしく思い出したようで、東京の下町育ちのマシンガントーク女友達に、持ちかけた。
生まれも育ちも東京山の手で、両親が北関東出身の女友達は、お餅がとっときのご馳走だ、という感覚が、すごくわかる!と常々義母に共感し、
一方、東京下町育ちの女友達は、餅だけなんて有り得ない、とわたしに共感したのだった。
インターネットが発達し、全国どこでも似たようなモールとチェーンが軒を連ね、ネットニュースを共有している現代でも、直接話さないとわからない、知らない、無駄話っていっぱいあるのだ。むしろそっちのほうが圧倒的に多い!とわたしは信じたい。