2025年10月1日~10月6日、広島、芸備線沿いの三次、何もない、は人によって変わる。

2025年10月11日土曜日

街の風景 雑記 昭和 平成

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 故郷の広島に帰ったばかり、5泊6日、前半3泊は叔母の家に泊まり、その後、広島駅発、芸備線沿いの三次に2泊滞在した。

広島県北東部の街である「三次みよし」という語を発したとき周りの反応は微妙だった。なぜ三次に?なにしに行くの?という反応が返ってくる、三次に行っても何もないよ、という反応もある。

何もない、とは何を意味するのだろう?

人っ子一人住んでない、山の中、秘境?のこと?

しかし例えば、その地に廃線の危機にある知る人ぞ知る路線が走っていたらどうだろう。付加価値がつき「観光すべき地」に早変わりすることもある。

旅したい地は、全く人による。

わたしの場合を考えてみよう。広島市内で生まれ育ち、20代から東京に住み広島を離れて40年近くたつ。

口うるさかった父親の干渉から逃れたかった。その父親が、家業を継がせるつもりで学費を出してくれた大阪の専門学校に入学したのが、実家を離れるきっかけだった。

専門学校を卒業後東京の研修を終えると、父さんは当然わたしが広島へ帰るものと思っていた。

広島へ帰りたくないわたしは、なんとか自力で就職先を見つけたはいいが、無理やり広島へ戻され、すったもんだの末東京に住み着いた経由がある、ありがちな話だ。

あれから40年近くたって思うことは、父さんは酒好きで仕事人間で、その一方家庭を大事にした人だった。誰もが知っている会社である程度出世したが、公私混同の生活を部下に報告され会社を辞めることになった。

それでも、その後慣れない商売に挑戦し一定の成功をおさめた。父さんとしては自分の店を子供に継がせたかったのだ。自分勝手で出来の悪いわたしが逃げ出したおかげで、成績優秀で人気者の弟が継がざるを得なくなったが、

今や個人商店の難しさは誰もが知ることとなった。チェーン店の進出によって厳しい状況の中、父さんが遺した店を弟は立派に守り続けている。


三次駅に降り立ち、駅前の商店街やひろぎん通りなどを通り抜け、馬洗川にかかる巴橋を渡り右へ行く。

石畳で整備された商店街が続き、やがて、辻村寿三郎人形館、その先には、2019年オープンした「もののけミュージアム」が佇んでいる。

土、日、月、と三次にいたけれど、観光客はほとんど見かけなかった。唯一「もののけミュージアム」で、60代前後の女性グループに遭遇したくらいだった。

三次駅から巴橋に至るいくつもの通りを歩いていると、両脇の家の多くがかつては店舗だったことに気づかされる。

かすれた看板に、美容室、商店、薬屋、金輪工業、ガラス、呉服、建材、貸衣裳、寿司処、時計、宝石、メガネ、ひな人形、などの文字が読み取れる。

看板がそのままになっている家がほとんどで、賑わっていた往時の様子が浮かんでくる。

母方の実家も芸備線の向原にあった。1960年代から70年代、向原の商店街で人々が行き交う様子が目に焼き付いている。

人形屋が多い。江戸時代にはじまったとされる三次人形が有名だ。なんでも昔から祝い事など折に触れて人形を送りあう習慣があるらしく、商店や多くの家のガラス越しに人形が飾られている。

「フレスタ三次プラザ」というショッピングセンターが駅から徒歩7分程度の場所にある。

そこには、元からある地元の店に混じって、スーパーフレスタ、無印良品、広島に本社があるドラッグスーパーのウオンツ、メガネのパリミキ、クリニック、ラーメン屋など集結しているからホテル滞在も快適だった。

時代は移り変わり、わたしが懐かしく思い出す人は一人去り2人去り、やがて自分も消えていく。

そんなちっぽけな悟りを開くと、今という時間がどんなに大事か、たった今、目の前にいる人と話している、触れ合っているという事実がどんなに素敵で、はたまた二度と経験したくないような不快なことか、

今ごろになって、トラブルの一つもない人生なんて味気ない、と思うようになった。

なだらかな山々が見渡せる三次盆地に囲まれた三次は「何もない」という表現とは少し違う印象だ。

時代の変化にちょっとずつ対応しながら、もののけミュージアム、、辻村寿三郎人形館、三次ワイナリー、と昔から育んできた伝統と産業を活かした取り組みに乗っかってみようと思う。

また行くつもりだ。

なんといっても、子供の頃から聞かされていた、三次に行くんよ、三次に行ったら~、という会話を、おじいちゃんおばあちゃんが住んだ向原で、度々耳にしていたわたしにとって、大事な街だ。

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