いつのまにか書く場所が増えたから、分類する意味で、このブログは主に自分自身の感情を書こうと思った。
いっぽう、「note まやぎはとこ」は、買ったモノ、食べたモノ、について書く、という大雑把な分類をした。
でも、いざ感情的に、書こうとしても凄くむずかしいことがわかった。ワタシは、実生活では、会話に挟みこまれる、嬉しい!ありがとう!凄い!嫌い!という言葉を、大袈裟に言うタイプの人間である。冷静沈着、クール、とは真逆の人間と言ってよい。
でも、いざ、文章を書き始めると、感情を自由に表現するって、才能なんだ、ということに気づかされる。
やってみればわかるけれど、たった今自分がどんな感情、どんな思いなのかって、客観的に知るのってすごくむずかしい。
喋る、書く、頭の中で話す、は、同じじゃなかった。
日頃、感情を表に出さない人でも、メール、テキストチャットなどでやり取りするとき、一転して濃厚な文章を書く人がいる。こういう人に惹かれる。
例えば、学校時代、わたしの先生だった70代のアートディレクターの男性は、会って、話をするときは、テンションは高くもなく低くもなく普通なのに、
メールの文章は驚くほどの長文で、世の中全般に対する屈託のない批判と賞賛に加えて、現在の自身の活動などを熱量をこめて、400字詰め原稿用紙数枚単位の分量でもって語ってくださる。
その長文メールからは、昭和、平成、令和、と厳しい社会で生き抜いてきた人のモノの見方や人生に対する姿勢がダイレクトに伝わる。
しかしお会いするときは、数年に1度とかそのくらいの頻度でしか機会はないが、東京生まれの東京育ちの人らしい雰囲気も醸し出していて、淡々とした中にも、人が好き、人と人との触れ合いが好き、という人懐っこさが滲み出る、と言った佇まい。
メール文と本人のキャラクターはイコールではない。当たり前だ。
ひとたび、文章になると想いが溢れだす、伝えたい、ただ伝えたいだけじゃなく、最近どうしていますか?的な双方向の長文メールが、ひたすら今生きているなぁ、という感じがしてくる。ワタシは、たった今生きていると実感させてくれる人が好き。
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